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『田中杏子』

2009年12月12日に開催された@btfのトークショーにご登場いただいたのは、『Numéro TOKYO』創刊の仕掛人であり、編集長をつとめる田中杏子さん。多くの若者たちの憧れの的である、ファッションの世界で第一線で活躍しつづけるために田中さんがしてきたことを、やさしくたのしく語ってくれました。華やかなキャリアの裏側をお楽しみください。


イタリア時代

まず、お話しようと思っているのは、私のイタリア時代のお話です。私は、高校を卒業してすぐにイタリアに渡っています。高校時代から、何となく日本にいる自分というのが、「持て余している」という感覚を持っていたのと、先生に進路の相談に行ったところ、「外語大で外国語を勉強するくらいなら、海外に行ってしまいなさい!君はそういう人だ」と言われたからで、特にすごく強い気持ちで行ったというわけではありませんでした。そして、「ファッション」というものを学びたいと思っていた私が選んだ国は、イタリアだったんです。父の仕事関係の人が働いているということも、後押ししてくれました。  それから私は、イタリアのファッションデザインの専門学校に通うことになるのですが、私は自分がデザイナーになろうとは思いませんでした。というのも、自分に才能がないのは、目に見えて知っていたからです。それだけ、まわりには凄い人もいっぱいいたんですね。その代わり、私は中学3年生の頃にはじめて知った職業、「スタイリスト」になりたいと思っていました。洋服を選んで、コーディネートする仕事は、私の天職だと思っていたんですね。

イタリアでの仕事

それで、私が知り合ったのは、飲み歩いているときに知り合った友人たちでした。イタリアでは、さいしょ、「ねぇ、君、何やっている人なの?」みたいなところから、いろんな人が飲み屋で知り合ったりするんですね。それで、「私は、スタイリストになろうと思っているんだけど、どうやってなったらいいのかわからないんだ」というような会話をしていると、「じゃあ、僕の友達に、ファッションカメラマンがいるから、紹介してあげよう」みたいな話になってくるんですね。それで早速、フォトグラファーを紹介してもらって足を運ぶと、今度は、「君は、スタイリストになりたいなら、ブックがないとダメだね」と言われる。そうすると、今度は、フォトグラファーとヘアメイクにお手伝いいただきながらのブックづくりです。でも、最初はこじんまりつくっていても、途中で何となく物足りなくなってきます。すると、次は、飛び込みでお店に入って、タダで服を借りてきます。無料と言っても、もちろん相手にもメリットがあるように交渉するんですね。「タダで貸してくれたら、撮影した写真をあげるから」と言って。すると、意外と、そういう情熱みたいなものは伝わるのか、快く貸してくれるんですね。それでブックは完成しました。「さて、次、どうしよう?」ということになるわけで、そこで思い浮かんだのが、PR会社と編集部に売り込みに行くということでした。  そこで最初にアポイントを入れて、恐い者知らずに飛び込んだのが、ヴォーグ編集部という敷居の高いところだったんです。でも、意外なことに、「あなた、お洒落な服来て、見た目で自分のプレゼンテーションがOKよ」、そう担当者に言われたんですね。それで、スタイリストさんを2人ほどご紹介いただき、そのうちのひとりが、雑誌『ELLE』の表紙をやっているスタイリストで、偶然にも私の大好きなスタイリストだったんです。それから、彼女の下でアシスタントをはじめるんですね。そうすると、アシスタントとして凄く重宝されて、指名まで掛かるようになって、結構人気が高くなっていったんです。これには、理由があって、イタリア人は気質として、大雑把だし、いい加減だしというのがあり、日本人の繊細さや几帳面さがないんですね。それで、大事にされていたんだと思います。で、結局、イタリアには、6年くらい居ました。

イタリアから東京へ

 イタリアから日本に戻ろうと思ったキッカケは、東京に仕事で行ってきたというモデルの女の子たちから、いろいろ東京の面白い話を聞かされたというのが大きな理由です。彼女たちに「この間、東京のどこどこに行ってきたんだ」とか言われても、私は、大阪出身だからわからない。「東京のどこが面白いか、教えて?」と聞かれたって、わからない。ファッションの世界で生きていこうとしている日本人なのに、日本のファッションの一番面白いところを知らない。これは話にならない、自分でそう感じたんですね。それに海外にあまり長く居過ぎると、日本の社会に戻れなくなってしまうという危惧もありました。そこで、思い切って、日本に帰り、東京に行くことにしたんですね。それで、しばらく大阪でお金を貯めて、東京に行くんだけど、東京でもやっぱり知っている人は誰もいない。そこで訪ねたのは、イタリアで知り合いになったスタイリストの野口強さん、それから『流行通信』の女性編集者の方でした。 それで、彼らを通じてファッション業界で活躍している人を紹介してもらうと、「いくらファッションの本場、イタリアにいたと言っても、あなた東京を知らないから、スタイリストの仕事できないでしょ?」と言われてしまうんですね。でも、それは本当のことで、スタイリストというのは、手帳が命の仕事で、必要な情報を手帳を見て、パッと引き出せないといけないんです。「まず、ある程度、東京をみて、東京のことがわかったと思った時点でまた連絡頂戴」って言われてしまいます。そこで、やらなきゃいけないと思ったのが、その手帳づくり。雑誌を見て、気になるブランドを片っ端から調べ上げて、ショップの電話番号をリストアップして、さらにそのショップに電話をかけて、スタイリストが関わるべきプレスの番号を教えてもらう。特に気になるブランドには、プレスの人に挨拶に出向く。そんなことをしているうちに、「君、ドラマの仕事できるの?」という話が舞い込んできたんですね。ドラマの出演者全員の衣装を決めるという仕事です。今日のシーン、明日のシーン、明後日のシーンという時系列ではなくて、場面ごとの撮影をまとめて一緒にやってしまうという仕事ですから、「黄色い服、ボタンは3番目まで開いている」というようなことをひとつひとつメモしながらやっていかないといけない。やりたいファッション業界の仕事ではないけれど、そこでも人脈が増えて、そこを起点に少しずつスタイリストとしての仕事が入ってくるようになったんですね。『フィガロ』、『キューティー』なんかから声がかかって、名前も知ってもらえるようになると、どんどん仕事が入ってくるようになるんです。


『ヴォーグニッポン』で学ぶ

そんな中で、お声掛けをいただいたのが、日本に初上陸する予定になっていた『ヴォーグニッポン』だったんですね。で、そこでオファーされたのが、「ここで正社員として、働いてください。」というものだったんです。最初、迷いました。せっかく構築した、人脈やらはどうなってしまうのだろう?という気持ちです。仕事さえまわっていたら、スタイリストの方が、正社員よりも収入も高い。でも、ゼロから何かひとつの雑誌だけをつくり上げるってことに、とても大きな興味があったんですね。それで、『ヴォーグニッポン』に行くことに決めました。ところが、最初、鼻息荒く入ったはずの職場で、スタイリストとしてスタッフィングされないということが続くんですね。ヴォーグの場合、インターナショナルなヴォーグの基準というものがあって、その高いレベルをクリアしないと仕事として認められない。だから、最初は、荷物持ちだったり、切り抜きのビジュアルだけだったり、そういうことしかやらせてもらえず、「この状況、どうなんだ?」って自問自答する日々が続いていたんです。でも、あるとき、ある人に「あなたの気持ちもわかるけど、そういうあなたの小さなプライドで自分の成長をストップさせるのはやめなさい。あなたは、外人チームと仕事するのはじめてなんだから、吸収できる者を吸収したらいいのよ」と言われたんです。それで、私が思ったのは「ああ、それもそうだなぁ」ということだったんです。 そうこうしているうちに、私の大好きなフォトグラファーの、レイモンド・マイヤーが、日本で撮影しにくることになり、何度か仕事をしていくなかで、「君は、スタイリストできるの? もしできるなら、せっかく日本で日本の仕事やるんだから、君とやりたい」と言ってもらえるようになったんですね。それは、もう嬉しかったですね。それで、彼との仕事がはじまると、口伝えでどんどんスタッフィングをしてもらえるようになっていくんです。それで、インターナショナルチームと世界基準の仕事をしていた、つもりだったんですけど、あるとき、『ヴォーグニッポン』のコンデナスト社の社長が、『BRUTUS』から来た、斉藤和弘さんに変わることになった。すると彼は、「僕は日本をマーケットに、日本でビジネスをするなら、日本人スタッフを軸にチームをつくって、仕事をしたい」ということを言い出したんですね。それで、インターナショナルチームは、みんな外国に帰っていくことになるんです。それで困ったのも私で、それまで、"This is Vogue.", "This is not Vogue."という具合で、インターナショナルの基準を彼らに教えてもらっていたのに、そのモノサシがなくなってしまった。すると、自分で、どこを軸にしたら良いのか、さっぱりわからない。それで、自分でも迷いに迷っていた。すると案の定、「田中の仕事は、インターナショナルのレベルに達していないから、スタッフからはずせ」という命令が、本国からくることになってしまうんですね。でも、それを言われたときも、「そうだよね」というのが私の想い。それくらい迷いがあったんです。 それじゃあ、もう会社辞めるか、読み物チームの編集者としてやっていくしかないか、そんなことを思っていたら、斉藤社長に「君は、読み物を担当するようなジェネラリストではなくて、スペシャリストだから。君はそういう人だから、やって欲しい仕事がある」。そう言われて、任されることになったのが、伊勢丹ブックという、カタログづくり1冊だったんです。これを全部任せてくれた。年3回つくるんですけど、これのキャスティングを全部ひとりでやった。すると、この仕事は制約という不自由があるから、何か逆に自由になれる気がしたんですね。つくり手というのは、不自由を与えられると、そのなかでできる目一杯のことを考えるから逆に自由な発想が沸いてくるものなのだと思います。なので、とても愉しく、「伊勢丹のお客様である女性たちに、夢、ファンタジーを与える」という軸、制約に沿う形で、いろいろ誌面を構成させていくことができたんですね。この伊勢丹ブックの仕事は、約2年くらいやったと思います。

現在、そしてこれから

そうすると、今度、声がかかってきたのが、今も務める『Numéro TOKYO』だったんです。わたしは、『Numéro』の大ファンだったので、嬉しかったんですけど、頼まれた役職が編集長というものだったんです。でも、私は、元々はスタイリストで、次のステップとしては、ファッションディレクターという道を探っていたということもあって、最初は「編集長は無理です」と断っていました。でも、話しをするうちに、「じゃあ、やってみよっか」ということになり、創刊準備に取りかかることになった。でも、この創刊、スタッフィングが何よりも肝なので、そこには時間が掛けたかった。それだけじゃなくて、販売経路だとかなんだかんだとやっていくと時間がかかる。それで、結局、私がプロジェクトに参画してから、1年半後に『Numero TOKYO』が発行されるにいたったわけです。でも、発行されるまでも、パペット・ジアンという本国の『Numéro』をつくっている人物に認められなきゃならなかったり、発売寸前で発行元が変わったり、いろいろショッキングな出来事はあったんですけど、無事発売され、今に至るというわけなんですね。よく人からは、「どうやって、そこまでのし上がったの?」なんて聞かれますけど、それは、簡単に言えば、イメージの力だけでやってきたもの。自分が欲しいもの、欲しくないものを明確にさせて、道を思い描いて、目の前にあることに没頭して、邁進する。ただ、もうそれだけなんですね。私が思うには、人間には、その人の度量に見合った問題というのは常に起るし、それは常に乗り越えられるもの。10才の子には10才の子よう問題が起こり、25歳だった頃の私には25歳の私用の問題が起こり、今の年齢の私には、今の年齢に相応の問題が起る。1億円持っている人には1億円の話が舞い込み、1000円を持っている人には1000円の話しか舞い込まないのと似ているかもしれません。だから、これからもきっと、問題は起ってくると思うんだけど、それはいつも乗り越えられるものだと思うんですね。だから、私は、あんまり大きなこと、先のことは心配していない。きっと、大丈夫だ、そのときの私が何とかしてくれるだろう、そんなことを思っているんです。

■田中杏子

10月30日生まれ。ミラノに渡りファッションを学んだ後、第一線で活躍するファッション・エディターのもとで、雑誌や広告などに携わる。帰国後はミラノ での経験を活かし、フリーランスのスタイリストとして活動。流行通信やELLE JAPONの契約スタイリストを経て、VOGUE NIPPON創刊時より編集スタッフとして参加。ファッション・エディターとしてのキャリアを重ねるとともに、広告やTV番組の司会、また資生堂 「MAQuillAGE」キャンペーンのファッション・ディレクターの職を2年間兼務するなど多方面で活躍。2005年11月より Numéro TOKYO編集長に就任し、1年半の準備期間を経て、2007年2月に創刊、現在に至る。